Se connecter自室へ戻ったセレナは、扉を閉めてからもしばらく動けなかった。
廊下の向こうでは、使用人たちがヴィオラのために客室を整える足音が続いている。雨に濡れた外套を預かる者、湯を用意する者、夜食を運ぶ者。普段なら気にも留めない館の生活音が、今夜に限っては妙に耳についた。
ここは三年間暮らした家だった。
けれど、もう自分の家ではなくなる。
その事実だけが、扉一枚隔てた向こう側から、少しずつこちらへ染み込んでくるようだった。
「奥様」
マーサが控えめに声をかけた。
セレナはようやく振り返る。
「ごめんなさい。ぼんやりしていたわ」
「謝ることではございません」
侍女はそう答えたものの、顔には隠しきれない怒りが浮かんでいた。長年この家に仕えているため、主人一家へ露骨な不満を口にすることはない。それでも、唇を引き結んだ様子を見れば何を考えているのかは分かる。
セレナはドレスの胸元に手を添えた。
「脱がせてもらえる?」
「もちろんです」
背中の留め具を外してもらいながら、鏡の中の自分を見る。
今日のために選んだ淡い青のドレス。
結局、ダミアンは一度も褒めなかった。
別に、それくらいはどうでもいい。そう思おうとしたところで、胸の奥に残った痛みまでは消えてくれなかった。
「奥様」
「なに?」
「……本当に、離婚なさるのですか」
マーサの声は低かった。
セレナは鏡越しに彼女を見た。
「ええ」
「旦那様がおっしゃったから、ではなく?」
意味を理解して、少しだけ苦く笑った。
「違うわ。あの人に言われたから仕方なく、ではないの。たぶん……私も、もう十分だったのよ」
口にした瞬間、自分でも驚くほど腑に落ちた。
三年間、ずっと我慢していた。
我慢しているつもりさえなかった。
夫婦とはこういうものだ。政略結婚なのだから仕方がない。ダミアンは忙しい。自分に狼がいないせいで、彼は周囲から同情されている。だからせめて役に立たなければならない。
理由はいくらでも作れた。
けれど、理由を積み上げたところで、寂しくなくなるわけではなかったのだ。
「私、あの人に愛されるために、ずいぶん長いこと準備をしていたみたい」
「準備、でございますか?」
「ええ。あれをしたら喜ぶかもしれない、これを覚えたら褒めてくれるかもしれない、今日は疲れているから話しかけないほうがいい、明日は機嫌がよさそうだから少しだけ一緒にお茶をお願いしてみようって。いつも次の機会ばかり考えていたの」
マーサの手が止まる。
セレナは鏡の中の自分へ向かって続けた。
「でも、結局その機会は来なかった。今日まで」
「……奥様」
「だから、もういいのよ」
泣きたいと思っていた。
けれど、不思議と涙は出なかった。
代わりに、ひどく疲れていた。
長い間ずっと重い荷物を背負っていて、ようやく下ろしていいと言われたような感覚に近かった。
ドレスを脱ぎ、寝間着へ着替えたところで、扉が叩かれた。
「奥様、失礼いたします」
入ってきたのは、若い侍女のリタだった。
いつもなら明るくよく笑う娘だが、今夜は落ち着かない様子で両手を前に組んでいる。
「どうしたの?」
「旦那様が……奥様をお呼びです」
マーサの顔が険しくなる。
「この時間に?」
「はい。応接間へ、と」
セレナは一瞬、目を閉じたくなった。
さすがに今日はもう何も聞きたくなかった。
それでも無視するわけにはいかない。
「分かりました。上着だけ持ってきて」
マーサがすぐに反対する。
「奥様、明日にしていただいてもよろしいのではありませんか。離婚のお話は正式な書類を整えてからすると、つい先ほど――」
「たぶん、離婚の話じゃないわ」
なぜか、そんな気がした。
そしてその予感は当たった。
応接間へ入ると、ダミアンとヴィオラが並んで座っていた。
火の入った暖炉の前で、ヴィオラは借り物らしい薄紫色の室内着に着替えている。濡れた髪もすでに乾かされ、艶やかに肩へ流れていた。
セレナは一瞬だけ、その待遇の早さに感心してしまった。
館の使用人たちは優秀だ。
誰が主人になっても、こうして滞りなく仕えるのだろう。
「呼んだの?」
ダミアンが顔を上げる。
「座れ」
「立ったままで構わないわ。もう休みたいの」
以前なら、彼の指示に従っていた。
たったそれだけのことなのに、ダミアンはわずかに眉を寄せた。
ヴィオラが遠慮がちに口を開く。
「セレナ様、本当にごめんなさい。こんな夜にまでお時間を取らせてしまって」
「用件を聞かせてください」
柔らかく返したが、なるべく余計な言葉は足さなかった。
ヴィオラは少しだけ困ったようにダミアンを見る。
その仕草がひどく自然で、二人の間にはもう自分の知らない呼吸ができあがっているのだと分かった。
ダミアンが代わりに言った。
「ヴィオラの部屋についてだ」
「客室では不都合が?」
「今夜だけなら問題ない。だが、しばらくこの館で暮らすことになる」
セレナは黙った。
そこまでは予想していた。
離婚が正式に成立するまで多少の時間はかかる。ヴィオラを妻として迎えるつもりなら、彼女がこの館へ出入りするのも不思議ではない。
「それで?」
「東側の客室は日当たりが悪い。北側は改装中だ。南側は客人用として使う必要がある」
嫌な予感がした。
ダミアンは続ける。
「お前の寝室をヴィオラに使わせたい」
セレナは一度、聞き間違いかと思った。
「……私の?」
「ああ」
「今、私が使っている部屋を?」
「離婚するなら、いずれ出ていくことになるだろう」
あまりにも自然に言われたので、しばらく返事ができなかった。
ヴィオラが慌てて身を乗り出す。
「私からお願いしたんです。ダミアン様を責めないでください」
その言葉で、今度こそ意味がはっきりした。
「ヴィオラ様が?」
「ええ。でも、無理にとは言っていません。本当に。昼間に一度だけ館を見せていただいたとき、あのお部屋がとても素敵だと思って……窓から庭も見えますし、朝日も入るでしょう? それに、ダミアン様のお部屋にも近いと伺って」
最後の一言だけ、ほんの少し声が小さくなった。
恥じらいのつもりなのだろう。
セレナは怒るより先に、妙な可笑しさを感じた。
そこまで欲しいのか。
夫だけでは足りない。
部屋まで欲しいらしい。
「確かに近いです」
「ですから、その……いずれ私がこの家で暮らすことになるのなら、最初から慣れておいたほうがいいのではないかと思ったんです。でも、セレナ様が嫌なら、もちろん――」
「嫌です」
ヴィオラの言葉が止まった。
ダミアンの目が細くなる。
「セレナ」
「嫌だと言いました」
「数日だけだ」
「数日なら客室でよいでしょう」
「ヴィオラは番だ。俺のそばにいたほうが落ち着く」
胸の奥に冷たいものが落ちた。
「だから、私が今夜から部屋を明け渡すの?」
「いつかは出る部屋だ」
ダミアンの声には本気で悪意がない。
だからこそ、セレナには堪えた。
彼は本当に分かっていない。
自分が何を奪おうとしているのか。
「あの部屋は、三年間、私が使ってきました」
「分かっている」
「分かっていないわ」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
ダミアンの表情が変わる。
ヴィオラは口を閉ざした。
「たしかに、私はこの家を出ます。離婚にも同意しました。でも、だからといって今夜から何もかもあなたたちのものになるわけではないでしょう」
「別に何もかもとは言っていない」
「同じことよ」
「大げさだ」
その一言に、胸の奥で何かが切れた。
「大げさ?」
セレナは笑わなかった。
「あなたは今日、結婚三周年の夜に別の女性を連れて帰ってきて、離婚してほしいと言った。その数時間後には、その女性のために私の寝室まで空けろと言っているの。それを大げさだと言うなら、あなたにとって私は本当に、その程度だったのね」
「感情的になるな」
「感情的にもなるでしょう。私はあなたの使用人ではないのよ」
部屋の空気が張り詰めた。
ダミアンは返事をしなかった。
おそらく、これほど強く言い返されたことがないのだろう。
セレナ自身も、初めてだった。
いつもならここで引いていた。
彼が疲れているから。
仕事があるから。
面倒を起こしたくないから。
けれど、もう気を遣う理由がない。
ヴィオラが静かに言った。
「セレナ様、私、本当にそんなつもりでは……」
「では、客室を使ってください」
セレナはまっすぐ彼女を見る。
「あなたが悪い人だとは思っていません。番を見つけたことを責めるつもりもありません。でも、人の寝室を欲しいと言っておいて、傷つけるつもりはなかったと言われても、私はどう受け取ればいいのでしょう」
ヴィオラの頬が赤くなる。
「私はただ、ダミアン様のおそばにいたくて……」
「でしょうね。なら、その気持ちを叶える方法を、私の部屋以外から探してください」
「セレナ、いい加減にしろ」
ダミアンが立ち上がった。
低い声だった。
セレナは昔なら怯えていたかもしれない。
けれど今夜は、不思議と怖くなかった。
「何がいい加減なの?」
「ヴィオラに当たるな」
「当たっていないわ。断っているだけでしょう」
「お前は昔からそうだ。表面上は穏やかだが、一度意地になると話を聞かない」
セレナは言葉を失った。
三年間ほとんど喧嘩すらしなかった相手から、自分の性格を決めつけられたことが意外だった。
やがて、乾いた笑いがこぼれた。
「そう。あなたは私をそんなふうに見ていたのね」
「そういう意味じゃない」
「いいえ、分かったわ。とても参考になった」
「セレナ」
「でも、部屋は譲りません」
きっぱりと言い切った。
「私がこの家を出る日までは、あの部屋を使います。それがそんなに不都合なら、離婚の手続きを早めてください。明日から荷物をまとめます」
ヴィオラが驚いて顔を上げる。
「明日から?」
「ええ。いつまでもここにいる必要はないでしょう」
ダミアンの眉間に深い皺が寄った。
「そんなに急ぐ必要はない」
「どうして?」
「離婚には手続きがある。お前の行き先も決めなければならない」
「自分で決めます」
「簡単に言うな。狼も持たない女が一人で暮らせると思っているのか」
その言葉だけは、少し深く刺さった。
けれど、セレナは顔に出さなかった。
「少なくとも、ここにいて毎日あなたたちを見ながら暮らすよりは考える余地がありそうね」
「俺はお前のためを思って言っている」
「その言葉、今日だけで何度聞いたかしら」
ダミアンの顔に苛立ちが浮かぶ。
ヴィオラが間へ入った。
「もうやめてください。私が客室を使います。それでいいんです。私のせいでお二人がこんなふうになるのは嫌ですから」
セレナは思わず彼女を見た。
お二人がこんなふうになる。
まるで、今まで二人の関係が円満だったような言い方だった。
それすら、ひどく滑稽に思えた。
「では、そうしてください」
セレナは頭を下げた。
「もう休みます」
「待て」
ダミアンに呼び止められる。
けれど、今度は振り返らなかった。
応接間を出ると、廊下の空気は少し冷えていた。
そこで待っていたマーサが、何も聞かずに隣へ並ぶ。
二人で歩き出してから、セレナは小さく言った。
「明日、箱を用意して」
「お荷物を?」
「ええ」
「全部でございますか」
セレナは少し考えた。
「私のものだけでいいわ」
言ったあと、妙なことに気づいた。
自分のもの。
三年間も暮らしたのに、果たしてどれほどあるのだろう。
ドレスの大半は公爵夫人として必要だから仕立てたもの。宝飾品も公爵家から貸し与えられたものが多い。家具はもちろん、この家の所有物だ。
自分で選び、自分のために買ったものは、驚くほど少なかった。
「奥様」
「明日、数えてみましょう」
セレナは自室の扉へ手をかけた。
「どれくらいで、この家を出られるのか」
扉を開ける。
見慣れた寝室には、三年間の暮らしがそのまま残っていた。
それなのに今は、不思議なくらい借り物に見えた。
そしてセレナは、その夜初めて思った。
この部屋を出ることよりも、このままここに居続けることのほうが、ずっと怖いのだと。
第20話 優しくされると、借りを作った気がする 翌朝、セレナが目を覚ましたとき、最初に感じたのは静けさだった。 地下牢のような、息を潜めなければならない静けさではない。厚いカーテンの向こうから朝の光が柔らかく滲み、廊下では使用人が足音を抑えて行き来している。どこか遠くで食器の触れ合う音も聞こえた。 それでも数秒のあいだ、自分がどこにいるのか分からなかった。 天蓋。 柔らかな寝具。 窓。 鉄格子のない窓。 そこまで確認して、ようやく昨日のことが戻ってくる。 処刑。 停止。 月血。 使節館。 そして、自分で選んだ林檎と焼きたてのパン。「……生きてる」 声に出すと、少し可笑しかった。 昨夜までも生きていたし、今朝も当然のように身体はここにある。 それでも、一晩眠ってから迎えた朝には、昨日とは違う重みがあった。 セレナは寝台から降り、窓を開けた。 冷たい朝の空気が入り込む。 使節館の庭には、黒い制服を着たノクティスの騎士が何人か立っていた。昨日聞いた六人の護衛だろう。 こちらを見張っているようには見えない。 けれど、守られていることは分かる。 守られる。 その言葉に、まだ少し身体が強張る。 守ると言いながら、選択を奪う人間をセレナは知っていた。 善意で人生を決めた大公。 妻を守っているつもりで何も見ていなかったダミアン。 そしてルシアンも、いつか同じになるかもしれない。 そう考える自分を責める気はなかった。 信用とは、命を助
第19話 黒狼王の客人になった元死刑囚 処刑場からノクティス王国の使節館まで、馬車なら十五分ほどだった。 たったそれだけの距離なのに、セレナにはひどく長く感じられた。 窓の外には、いつもと変わらない領都の朝が流れている。パン屋の煙突から白い煙が上がり、荷車を引く商人が通りを横切り、開店準備をする店員が軒先を掃いていた。 ほんの少し前まで、自分はこの朝の続きを見ることすらないはずだった。 道の向こうで母親に手を引かれている子どもを見ただけで、胸の奥が妙に詰まる。店先に並ぶ赤い林檎を見ても、あれを食べられるのだと思ってしまう。 生き延びたからといって、世界が急に美しくなるわけではない。 ただ、昨日まで当たり前だったものに、値段がついたように感じる。「気分が悪いか」 向かいから声をかけられ、セレナは窓から視線を戻した。 同じ馬車にはルシアンが乗っている。 本来なら国王専用の馬車なのだろう。黒革張りの座席は柔らかく、揺れも驚くほど少ない。「いいえ。外を見ていただけです」「顔色が白い」「元からです」「そういう誤魔化し方をするな」 即座に返され、セレナは少し口を尖らせた。「処刑されかけた直後なんですから、多少顔色が悪いくらい仕方ないでしょう」「だから聞いた」「……そうですね」 この男との会話は、ときどき妙に調子が狂う。 心配されると、つい「大丈夫です」と答えたくなる。 するとルシアンは、それを許してくれない。「少し疲れています」 言い直すと、彼は頷いた。「では着いたら休め」「先に事情聴取とか、血統検査とかがあるのでは?」
第18話 私は、誰の所有物にもならない「月の女王となる者です」 老薬師の言葉が、朝の広場に落ちた。 つい先ほどまでセレナの処刑を見届けようと集まっていた人々が、今度はまったく別の意味で息を呑んでいる。 処刑台の床には、まだ銀白色の狼の影が残っていた。 セレナが動けば影も動く。けれど、人間の影とは明らかに違っていた。四本の脚を持つ巨大な狼は、まるでセレナ自身を守るように、その身体を包み込む位置に立っている。「待ってください」 真っ先に声を出したのは、セレナ自身だった。「月の女王って、何ですか。私は昨日まで国家反逆罪で処刑される人間だったんですよ。それが急に女王だなんて言われても、話が飛びすぎています」 もっと驚くべきところがあるだろうに、口から出たのはそんな言葉だった。 老薬師は膝をついたまま、何とも言えない顔をした。「お変わりになりませんな」「以前の私をご存じなのですか」「十七のころ、一度だけ診ております」「それなら、まず立ってください。年上の方に跪かれると落ち着きません」 群衆の中から、ごく小さな笑いが漏れた。 緊張が張り詰めすぎていたせいだろう。 老薬師自身も少しだけ笑い、膝へ手をつきながら立ち上がった。「では、お言葉に甘えましょう」 その瞬間、王家の法務官が我に返った。「待て! まだ執行停止が正式に確定したわけではない!」 広場の空気が再び硬くなる。「審問官が勝手に延期を宣言したにすぎません。王都からの命令は有効です。血統が何であろうと、この女は国家反逆罪で有罪とされた死刑囚だ!」「その有罪判断自体に重大な瑕疵があると言っている」 ギルベルトが前へ出た。「
第17話 処刑台で、黒狼王は剣を抜いた 処刑まで十二時間を切ったと知らされた夜、セレナはほとんど眠れなかった。 眠れないのは当然だと思っていた。 明日の朝、自分の首が刎ねられる。 そう理解しているのに、身体のほうは妙に現実的で、喉が渇けば水を欲しがり、冷えれば毛布を引き寄せ、長く座っていれば腰が痛くなった。 死ぬ予定が決まったからといって、人間の身体は急に特別なものにはならないらしい。「変なの」 寝台の上で膝を抱えながら呟く。 怖い。 間違いなく怖かった。 けれど、数日前まで想像していたほど取り乱してはいない。 泣き疲れたせいかもしれない。 あるいは。 胸の奥に、あの温かさがあるからかもしれなかった。 ルシアンに会ってから、それはずっと消えずに残っている。 大きな狼が、自分の胸の内側で身体を丸め、眠らずにこちらを守っているような感覚。 外からは、遠くの鐘の音が一度だけ聞こえた。 夜半を知らせる鐘だろう。 あと何時間あるのか、計算しようとしてやめた。 数えても、朝が遅くなるわけではない。「ルシアン陛下、どうするつもりなのかしら」 あの男なら何かする。 根拠はない。 けれど、言葉だけではなく行動を見ろと言った人だ。 その彼が「諦めない」と言った。 信じ切るのは怖い。 期待するのも怖い。 それでも、まったく期待していないと言えば嘘になる。 そのとき、胸の奥の狼がわずかに動いた。「あなたまで期待しているの?」 返事はない。「もし
第16話 黒狼王は、私の処刑を止めに来た ルシアン・ヴォルク国王が領都へ入った。 その知らせは、地下牢にいるセレナのところへ届くまで、それほど時間を要しなかった。 誰かが正式に教えてくれたわけではない。 廊下を走る衛兵の数が増え、交代のたびに短い会話が飛び交い、それまで静かだった監察局の地下にまで、地上の緊張が染み込んできたのだ。「黒狼騎士団は西門の外で待機させたらしい」「全員じゃない。王自身と近衛二十名だけが入城した」「二十名でも十分だろ。ノクティスの黒狼近衛だぞ」「王都からの返答は?」「まだだ。だが大公殿下が迎えに出たらしい」「ダミアン様も?」「当然だろう。あの王が何をしに来たと思ってるんだ」 そこで声が小さくなる。「……あの女だよ」 セレナは寝台に腰掛けたまま、扉の向こうへ目を向けていた。 あの女。 自分のことだ。 少し前までは公爵夫人だった。 今は国家反逆罪の死刑囚。 そして、会ったこともない外国王が自ら国境を越えてくる理由になっているらしい。 どう考えてもおかしい。「本当に、何なの……」 胸へ手を当てる。 ルシアンの名前を聞いて以来、内側の熱は消えなかった。 痛くはない。 黒月病の発作を起こしたダミアンのように、身体が内側から裂けそうになるわけでもない。 むしろ反対だった。 熱いのに落ち着く。 ずっと閉じた部屋の中にいたものが、遠くから近づいてくる何かの気配を感じ、扉の前まで歩いてきたような感覚だった。
第15話 処刑まで三日、元夫はようやく私を信じた 死刑を告げられたあと、人は何を考えるものなのだろう。 家族の顔を思い浮かべるのかもしれない。 やり残したことを悔やむのかもしれない。 神へ祈る者もいるだろうし、泣き叫んで無実を訴える者もいるだろう。 セレナが最初に考えたのは、ひどく場違いなことだった。「三日しかないなら、マーサに返すはずだった本、返せないわね」 口にしてから、自分でも妙だと思った。 地下牢へ戻される途中だった。 前を歩いていたエドガーが振り返る。「本、ですか」「ええ。薬草の本を借りていたんです。荷物の二箱目に入れたままで」「……今、考えることがそれですか」「自分でもそう思います」 セレナは小さく笑おうとしたが、口元は思うように動かなかった。 本当は、何を考えればいいのか分からないだけだった。 三日後。 公開処刑。 あまりにも具体的な日数を与えられると、「死ぬ」という出来事がかえって現実から遠ざかる。 明日があって。 明後日があって。 その次の日には、自分はいない。 理解できるのに、理解したくない。「王都への異議申立てはできますか」 セレナが尋ねると、エドガーの歩みが一瞬鈍った。「大公殿下がすでに手続きを始めています」「止められる可能性は?」「……あります、と無責任には言えません」「低いのですね」 答えはなかった。 セレナは、それ以上聞かなかった。 重